修祓が終わり、献饌が済むと、祭りを主宰する神職、斎主(さいしゅ)が、神へ向かって祝詞(のりと)を奏上します。殿内の空気が、声の高さに一度、持ち上がる。昇殿参拝の山は、ここからです。
祝詞とは、古典の文体、言霊(ことだま)を用いて、神をたたえ、日頃の加護に感謝し、参列した人の願い、健康や繁栄や安全の成就を、神に祈る特別な文章です。読まれているあいだ、参列する側は、神の威厳への敬意として、背筋を伸ばしたまま、六十度の平伏(へいふく)で頭を下げ、静かに聞き入ります。厳かな響きのなかで、自分の願いの成就を、心の内で祈る。この時間は、ご神前への最も神聖な祈りの時間です。カメラでの撮影は、厳に慎みます。目を閉じ、言葉の響きだけを残す。
岩戸の内が、声に振り向いた
祝詞が、神の心を動かす言葉だということは、古事記の天石屋戸(あめのいわやと)が、いちばん鮮やかに示します。
天照大御神(あまてらすおおみかみ)が戸を閉じ、世界が闇になったとき、八百万の神々は、外へ誘い出す祭りを実行しました。ご神前に美しい言葉を響かせる大役を担ったのが、声の美しい祈りの神、天児屋命(あめのこやねのみこと)です。布刀玉命(ふとだまのみこと)が捧げ持つ、玉と鏡と布で飾られた巨大な真榊(まさかき)の前に立ち、心を込めて、尊い祝いの言葉、太祝詞事(ふとのりとごと)を、厳かに唱え上げました。
その声と、言葉に宿る言霊があまりに素晴らしかったため、岩戸の内の天照大御神は、心を動かされます。自分が閉じこもって世界が闇だというのに、なぜ外であんなに楽しそうに笑い、あんなにも美しく気高い言葉が響いているのだろう。外には、私以上に尊い神が現れたのだろうか。言葉の美しさに気を取られ、すきまをそっと覗き込んだことが、世界に光を戻す決定的なきっかけになりました。拝殿で頭を下げて聞く祝詞は、太陽の神の心を動かしたあの声の力を、神職が受け継いで唱えているものです。
枝は、時計の向きにしか回さない
祝詞が終わると、参拝者自身がご神前へ進み、常緑の枝を捧げる玉串拝礼(たまぐしはいれい)になります。みずみずしい常緑樹、主に榊の枝に、白い紙垂(しで)や麻の繊維、木綿(ゆう)を結びつけたものが、玉串(たまぐし)です。神と人の心、祈りを結ぶ橋であり、依代(よりしろ)とされています。
受け取りから席へ戻るまで、動きは一方向です。神職から玉串を両手で受けます。右手で枝の根本、枝元を上から握り、左手で葉先を下から支えます。胸の高さに保ったまま、玉串を捧げる机、玉串案(たまぐしあん)の前へ進み、十五度の小揖(しょうゆう)で軽く一礼します。
そこで玉串を、時計回りに九十度回し、縦にします。枝元が自分の胸元に、葉先が神の側へ向きます。左手を少し手前へ下げ、両手で枝の根本を包むように持ちます。目を閉じ、願いや感謝を込めて、静かに祈ります。祈念です。
祈りを終えたら、さらに時計回りに、くるりと回します。胸元にあった枝元が、神の側、前方へ向きます。その状態のまま一歩進み、玉串案の上へ、両手で静かに、優しく置きます。一歩下がり、ご神前に向かって二拝二拍手一拝を行い、最後にもう一度、小揖をして自席へ戻ります。玉串は、常に時計回り、右回りにしか回しません。ゆっくり、丁寧であることが、美しさの条件です。
杯が、日常への扉になる
玉串拝礼がすべて終わると、祭りは結びへ進みます。神に供えていたごちそう、神饌を丁寧にお下げします。これを撤饌(てっせん)と呼び、神事や状況によっては省かれることもあります。次いで、斎主一拝です。始まりと同じように、斎主の合図で、参列者全員が揃って九十度の深い一拝を行い、祭りの無事な終わりを神へ奉告します。
すべての儀式が終わったあとに行われる、最も温かい結びが、直会(なおらい)です。神に供えたお下がりの酒、お神酒(おみき)や、神饌の米や野菜を、神職と参列者が、その場でいただきます。
直会は、祝いの席の顔をしています。その奥には、別の仕事があります。祭りのあいだ、神職や参列者は、心身を厳しく清めて不浄を避ける潔斎(けっさい)や、忌み(いみ)と呼ばれる、日常から切り離された神聖な状態に入っています。お神酒や神饌をいただくことは、神の力、ご神徳を直接体へ取り込むと同時に、神の神聖な世界から、もとの温かい日常生活へ、心と体を直し戻して帰ってくる、ための行事でもあります。直す、という字が、名の中に残っています。
杯を一口含んで外へ出るとき、参道の音が、入る前より少し近く聞こえます。この所作が、神だけの祭りの形として整っていくまでには、仏と同じ敷地で祈られていた長い時代があります。次にたどるのは、神仏習合と、それを分けた神仏分離です。


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