古い神社の由緒書に、式内社(しきないしゃ)、あるいは一宮(いちのみや)という語が出てくることがあります。扁額の脇の小さな説明が、その社を1000年前の名簿へつなぎます。延喜式(えんぎしき)に記された神社は、二千八百六十一社です。この名簿を、延喜式神名帳と呼びます。
延喜式が生まれた背景には、律令があります。律令は朝廷の政治の仕組みを定めたもので、律と令から成ります。律はいまの刑法に、令は行政法に相当します。そのなかに、日本の神々への祈りを定める、日本独自の神祇の制度がありました。律令を実際に動かすための細かな取り決めが、式です。平安時代の中期に成った延喜式は、1000年を超える昔の式のなかに、伊勢の神宮や、ほかの神社の祭祀を書き留めています。朝廷が祭を記した神社の一覧が、神名帳です。
祈年の2月に、幣が届けられた
官社と呼ばれる制度は、7世紀の後半、天武天皇と持統天皇の御代に整えられ、8世紀の前半には全国へ広まりました。官社には、祭祀を担う神祇官の仕組みから、2月の祈年祭に幣帛(へはく)が献じられます。春を待つ季節に、朝廷の幣が諸国の社へ向かう。名簿に載ることは、祭の日に都からの供えが届くことでした。
平安時代になると、重要さに応じた区分が進みます。まず大社と小社。ついで、誰が幣を持って行くかで分かれます。神祇官が出向いて幣帛を出す神社が官幣社、国司が幣帛を出す神社が国幣社です。組み合わせは、官幣大社、官幣小社、国幣大社、国幣小社。年ごとに幣を受ける神社は、官幣大社と呼ばれました。延喜式神名帳には、名神大社の名も記されています。制度は、平安時代の移ろいとともに、さらに形を変えていきます。
神々には、人の位に似た神位も授けられました。正一位、従一位。その序列が、社の格を外へ示すことがありました。松尾大社は、清和天皇の貞観元年、西暦859年に、正一位を授けられています。遷都や国家の慶事、天変地異の祈願に際して、朝廷は神々の名を唱え、位をもって応えました。松尾の正一位は、その応えの一例です。のちに二十二社の上七社へも、松尾の名は並びます。位の序列と、都の名簿とは、どちらも朝廷の崇敬の濃さを測る物差しです。由緒書の「式内」の二字は、延喜式神名帳に名を残している印でもあります。二千八百六十一という数は、平安の宮廷が把握しようとした神社の幅です。その幅のなかで、大社と小社、官幣と国幣が、厚みの違う層を作っていきました。
国司の巡回を、一か所に畳んだ
中央で二十二社(にじゅうにしゃ)が形を成すころ、地方では一宮や総社(そうじゃ)が、国司の仕事と結びついて現れます。国を治めるまつりごとには、国内の神への供えと参拝が欠かせません。やがて神社が序列化されると、その国で第一の地位を占める社を一宮とし、ほかを二宮、三宮と呼ぶようになります。一般に一宮と呼ばれる社格の、もとの姿です。
総社は、巡拝を一か所に畳む工夫でした。国司が国内の大社を一つずつ回る代わりに、一宮や二宮以下の神を勧請し、一括して祀ったのが総社です。街道を何日もかけて回る手間を、国府の近くの一度の拝礼に変える。政治の都合が、新しい社の形を作りました。
十六社が、二十二社になった
平安時代、律令と官社の制度が揺らぎながらも、天変地異や国家の大事のたびに祈願を受け、厚い崇敬を集めた神社があります。中世の半ばまで、朝廷からの崇敬は続きました。はじめは平安京の近くを中心に十六社でした。やがて二十二を数えるようになり、二十二社と呼ばれます。
上七社として挙げられるのは、伊勢の神宮、石清水八幡宮、賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)、賀茂御祖神社(かものみおやじんじゃ)、松尾大社、平野神社、伏見稲荷大社、春日大社などです。中七社、下八社にも、住吉大社や日吉大社をはじめ、名の知られた社が並びます。都に近い社から名簿が厚くなり、国ごとの一宮が地方の第一を担う。古代の格付けは、都の二十二と、諸国の一宮とが重なったものでした。
この区分は、明治に入ると別の言葉で組み直されます。明治の社格と、戦後に生まれた神社本庁が、その続きです。


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