鎌倉の鶴岡八幡宮の石段は、いまも人の列で埋まっています。この社を、鎌倉幕府は守護神としました。武家の政治が始まるとき、都の官社とは別に、幕府自身の祈りの先が置かれたのです。御成敗式目の第一条には、「神は人の敬ふに依りて威を増し、人は神の徳に依りて運を添ふ」とあります。神は人の敬いによって威を増し、人は神の徳によって運を添える。この精神は、室町幕府にも、江戸幕府にも受け継がれました。戦国を経た江戸幕府の下では、神社もさまざまな統制のなかに置かれます。敬うことが、そのまま自由な営みではいられなくなっていきます。
国家が尊び祀る、という位置
明治になると、政治の実権は幕府から天皇のもとへ大きく移ります。維新を経て、新しい国家の体制が始まりました。明治元年、祭祀を司る官庁である神祇官が復興します。同時に、神仏判然令(しんぶつはんぜんれい)が出されました。神社と寺院の区別を明らかにする令です。これを受け、神職の世襲はいったん廃され、任用の条件、定員、階級が定められます。家が職を継ぐ時代から、定められた資格で神職になる時代へ移ったのです。
神社は「国家の宗祀(そうし)」とされました。寺院や教会が宗教施設として立つ隣で、神社は、国家が尊び祀る公の施設という位置を与えられます。祈りの場が、国の制度の言葉で言い直された瞬間です。
官幣と国幣、その下に大中小
明治の社格は、大きく分けられます。神祇官の管轄となる官社は、三種類の官幣社と、それ以外の諸社とに整理されました。官幣社は皇室から幣帛(へはく)が供えられ、主に皇室の崇敬の厚い神社です。国幣社は国家から幣帛が供えられ、主に諸国の一宮をはじめ、地方で崇敬の厚い神社です。祈年祭、新嘗祭、例祭などが、その幣の届く祭でした。
大きさの区分もあります。大社、中社、小社。組み合わさって、官幣大社、官幣中社、官幣小社、国幣大社、国幣中社、国幣小社となりました。古代の官幣と国幣の名が、大中小という厚みを加えて戻ってきた形です。
そのほかの諸社は、府社、県社、郷社、村社として崇敬されます。さらに外の神社は無格社(むかくしゃ)に分けられ、地方長官の管轄となりました。無格社を除く諸社は、府県の共進を受けています。伊勢の神宮だけは、この列に収まらない、社格を超えた存在とされました。名簿の最上段のさらに外に、伊勢が置かれたのです。
靖国神社は、維新に殉じた英霊を祀るために造られました。前身は、明治2年に創建された東京招魂社(しょうこんしゃ)です。明治12年に、靖国神社と改称されます。新しい国家が、戦死者を祀る社を、官幣の由来とは別の経緯で立てた例です。
合祀のあと、一つの庁が残った
明治39年から43年にかけて、神社の維持と管理、威厳を保つため、神社の合併が行われました。合祀の進み方は、地域によってばらつきがあります。残った社の鳥居は広くなり、名を畳んだ社の跡は、祠一つになることもありました。同じ県のなかに、残った社と、名を畳んだ社が並びます。ある土地では静かに終わり、ある土地では長く記憶に残った。国家の宗祀という位置は、社の数を整えようとする圧力とも隣り合っていたのです。
昭和20年、GHQの神道指令によって、「国家の宗祀」としての神社のあり方は終わります。昭和21年、全国およそ八万の神社を包括する神社本庁が発足し、いまに至っています。国家が祀る施設から、神社みずからが連なる団体へ。位置づけは変わりました。GHQは、一般の神社の新嘗祭を視察したともいわれます。制度が終わったあとも、祭の日の米は、各地の社で供えられていました。
社格の言葉は、由緒書のなかに残っています。官幣大社であったこと、一宮であったこと、無格社であったこと。それらは過去の順位であると同時に、その土地が国とどう向き合ってきたかの痕跡です。順位を紙の上で知るだけでは、石段の段数は分かりません。知識を、自分の足で確かめに行く学びが、次の一歩です。


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