二礼のあと、額が賽銭箱の高さからふと上がります。拝殿の格子の奥で、丸い鏡が一点だけ光っています。その脇には、木や竹の棒に、白く切った紙が左右へ折られて下がっています。顔のある像は、見当たりません。手を合わせる相手の姿は、どこにも置かれていません。
神社のご神前に、仏像のような神像がほとんど置かれないのは、神が決まった姿や形を持たない、と考えられてきたからです。古代の人は、神がそのつど、緑の山や木、巨石へと降り、そこに宿る、と感じていました。一時的に依りつくための物や場所を、依代(よりしろ)と呼びます。拝殿の奥の鏡と御幣(ごへい)は、その代表です。目に見えない方が確かにここにおられる、と威厳を示し、ご神前を清らかに美しく整えます。その整え方を、荘厳する、と言います。
鏡が特別な物だった痕跡は、社殿ができるより前の土の中にもあります。古墳などからは、青銅の鏡が、玉(ぎょく)や剣(つるぎ)とともに数多く出てきます。映す道具であると同時に、祈りの道具でもありました。
岩戸のすきまに、自分の顔があった
その鏡が、いちばん劇的に働いたのは、古事記の天石屋戸(あめのいわやと)です。
天照大御神(あまてらすおおみかみ)は、岩戸を閉じてしまいました。世界は闇です。八百万の神々は、戸の外で祭りの支度をします。外には、音と光と、笑いが満ちています。閉じこもりが、細いすきまから外を覗いたとき、目の前へ差し出されたのが、神々の造った丸い鏡、八咫鏡(やたのかがみ)でした。
鏡は、太陽の神の姿を、そのまま返しました。天照大御神は、自分のほかに、これほど立派な神が現れたのか、と驚き、もっとよく見ようとして身を乗り出します。その隙に、手力男神(たぢからおのかみ)が手を引き、戸の外へお連れした。光が戻ったとき、鏡の仕事は、神を外へ引き出すことにありました。
寝室に、私として置け
鏡が本殿の最奥に置かれるようになった経緯も、古事記は言葉で残しています。
天照大御神は、地上を治めるため、天孫の邇邇芸命(ににぎのみこと)を送り出しました。天孫降臨の旅立ちに、岩戸の前で使ったあの八咫鏡を授け、こう言い渡します。この鏡を見ることは、私自身を見るのと同じことだ。私を敬うのと同じように、この鏡をご殿、寝室に置き、自らの魂(みたま)として常に大切に祀りなさい、と。
この命じ方を、同床共殿(どうしょうきょうでん)の精神と呼びます。同じ床、同じ殿に、鏡を自分として置け。八咫鏡は皇位の証である三種の神器として皇室に受け継がれ、神社の本殿のいちばん奥には、神の目に見える形、御霊代(みたましろ)として鏡が安置されるようになりました。指を揃えて頭を下げるとき、正面で光っている丸い面は、姿のない方の席です。
布が、雷のかたちになった
鏡と並ぶ折れ紙の道具が、御幣です。幣(へい)という言葉の初めにあるのは、布です。
古代、衣のための布は、手に入りにくく、金に匹敵する、あるいはそれ以上の貴重品でした。人は神にいちばん喜んでいただく贈り物として、麻や木綿(ゆう)を、木や竹の串に挟んで捧げました。これが幣、あるいは幣帛(へいはく)の始まりです。のちに和紙をすく技術が伝わると、貴重だった布の代わりに、清らかな紙が使われるようになり、棒の両脇へ紙を挟む今の形へ移っていきました。
左右に垂れる、折れ曲がった紙を紙垂(しで)と呼び、四手とも書きます。あの折れは、稲妻を象っている、と伝えられてきました。夏の雨とともに光り響く雷を、古代の人は神の強い力そのものだと感じていた。雷の多い年は雨が足り、空気中の窒素が雨に溶けて田へ降り、米がよく実ります。稲が夫を慕うように雷を慕い、実りを結ぶ。そこから、稲妻と呼ばれた、といわれます。紙垂には、恵みの雨を呼び、五穀の豊かな実りを願う気持ちと、落雷が一瞬で闇を裂くように、邪気や災い、悪霊を吹き飛ばして祓う力が、重ねて込められています。
折り方は、神職の家と流派で受け継がれてきました。吉田流(よしだりゅう)、白川流(しらかわりゅう)、伊勢流(いせりゅう)。切れ込みの数も、紙の重なり方も、それぞれに違います。同じ紙垂は、御幣だけに留まりません。神聖な場を囲う注連縄(しめなわ)へ、等間隔に吊られます。ここから先へ不浄を寄せない、という結界のしるしです。
年末、家の入口に下げた縄の紙を見るとき、拝殿の奥と同じ雷のかたちが、戸口にも立っています。次に目が止まるのは、その脇で緑の葉を立て、色のついた布を垂らす真榊です。


コメント