参拝を終えて、授与所(じゅよしょ)や社務所(しゃむしょ)の窓口に並ぶ人がいます。渡されるのは、紙の札と、小さな袋です。記念に見えるその二つは、ご神前で祓われ、神の力、ご神徳が込められたものとして扱われます。
お札の呼び方は、一つに定まっていません。お神札(しんさつ)とも、神符(しんぷ)とも、守札(しゅさつ)とも呼びます。札には、ご祭神の名や神社の名、あるいは災いを除けるための祈りの言葉が記されています。自宅では、神棚(かみだな)に祀るのが一般です。種類によっては、玄関や門、台所、柱へ、直接貼ります。泥棒除けや魔除け、火の用心、火伏せの札は、家族と建物を守っていただくために、その場所へ貼って大切にされます。火の用心の札で特に名を知られるのは、京都の愛宕神社や、秋葉神社です。
この守札を、普段から身につけて持ち歩けるよう、小さく袋のかたちにしたものが、お守りです。札が、ポケットに入る大きさまで降りてきた仲間、といえます。
首から下げた、丸い錦の袋
歴史は平安時代まで遡ります。貴族たちのあいだで、お札などを入れた丸い錦の袋を、首から胸のあたりに吊り下げる懸守(かけまもり)が流行しました。旅の道中安全や、病気除けとして、身にまとったのです。
この懸守は、鎌倉時代になると武士たちのあいだへ広がり、江戸時代には、旅の流行とお伊勢参りの広がりとともに、一般の人々へ一気に及んでいきました。今のような、種類が多く、愛らしいかたちのお守りは、その広がりのなかで作られていきます。窓の外に並ぶ袋の色は、平安の胸元から、かなり長い道を歩いています。
数える単位が、木になった
神の数は、一柱(ひとはしら)、二柱(ふたはしら)、と数えます。
古代の感覚では、神は目に見えない存在で、祭りのとき、天から木、とくに常緑樹を伝って地上へ降りてくる、と考えられていました。そびえる大きな樹木はご神木(ごしんぼく)として神聖視され、その柱、その木そのものが、神と同一に崇められてきた歴史があります。神の宿る木が柱である、という考えが、そのまま数え方の単位になりました。
柱を神そのもの、あるいは神聖な依代と見る信仰は、遺跡と祭りに残っています。青森県の三内丸山遺跡(さんないまるやまいせき)は、縄文時代の巨大な特別史跡です。ここから、大人が何人も抱えなければならないほどの、巨大なクリの木の柱が六本、規則正しく立てられた跡が見つかっています。古代の祈りと、神聖な柱信仰の跡ではないか、と考えられています。
長野県の諏訪大社(すわたいしゃ)の御柱祭(おんばしらまつり)は、柱にまつわる祭りのなかで、いちばん名を知られたものです。7年に一度、山から巨大なモミの木を切り出し、男たちが命がけで坂を曳き落とし、境内の四隅に御柱(おんばしら)として立て、神を祀ります。柱が神である、という古代の感覚を、今にそのまま運ぶ祭りです。
世界の真ん中で、左右から回った
古事記で、柱は世界の中心そのものでした。
まだ国が生まれる前、世界は油のように、どろどろと漂っていました。天上の神から国づくりを命じられたのが、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と伊邪那美命(いざなみのみこと)の二柱です。二柱は、天浮橋(あめのうきはし)から天の沼矛(あめのぬぼこ)を差し下ろし、どろどろをかき混ぜます。矛の先から滴った塩が積もってできた島、オノゴロ島に降り立つと、まず行ったのは、宮殿を建て、その中心に巨大な天の御柱(あめのみはしら)を立てることでした。
国を生むための、最も古い結婚の儀式は、その柱のまわりで行われます。伊邪那岐命は、この巨大な柱を左から回ろう、と言い、伊邪那美命は、右から回る、と応じました。出会った瞬間、伊邪那美命が、なんと素敵な男の神でしょう、と声をかけ、伊邪那岐命が、なんと愛らしい女の神だろう、と答える。二柱は夫婦となり、次々と島々と神を生んでいきました。新しい世界を作る儀式の中心には、いつも、天と地をつなぐ一本の柱があったのです。
神聖な物ごとにも、それぞれ単位があります。神は一柱、二柱。ご神木や、天の御柱のような、木の依代に由来します。お守りは一体、二体(いったい、にたい)。神の分霊、分け御魂(わけみたま)が宿る、お身体そのものだからです。お神輿は一基、二基(いっき、にき)。神がお乗りになって移動する、どっしりとした乗り物だからです。平安時代の格式ある神社の一覧、延喜式神名帳では、神を一座、二座(いちざ、にざ)と数えました。神の鎮まる席、場所、という意味です。
神棚の前で「一柱」と口にするとき、その一音には、クリの巨木と、坂を下るモミと、オノゴロ島の御柱が、同時に立っています。正月の授与所で、その隣に並ぶのは、魔を破ると書かれた、一本の矢です。破魔矢と、縁起という言葉の来歴が、次の景色になります。


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