645年、飛鳥の宮殿で、皇族が自ら剣をふるって最高権力者を斬る——。日本史の中でもとりわけ劇的な事件が乙巳の変(いっしのへん)です。そこから始まる大化の改新、そして日本が初めて本格的な対外戦争に敗れる白村江の戦いまでを、今回は一続きの物語として追いかけます。私がこの20年ほどを調べて強く感じたのは、「内政の改革」と「外からの脅威」が、ずっとセットで動いていたということでした。
太子の死後、蘇我氏の時代へ
622年に聖徳太子が、626年に蘇我馬子が亡くなると、権力は馬子の子・蘇我蝦夷(えみし)、孫の蘇我入鹿(いるか)へと移ります。643年、入鹿は太子の子である山背大兄王(やましろのおおえのおう)を攻め、一族を自害に追い込みました。太子の血筋はここで絶えてしまいます。
『日本書紀』は、蝦夷と入鹿が甘樫丘(あまかしのおか)に邸宅を並べて「宮門(みかど)」と呼ばせた、自分たちの墓を「陵(みささぎ)」と呼ばせた、などと書き、蘇我氏がまるで天皇のようにふるまったと強調しています。
『日本書紀』は、蘇我氏を倒した側(中大兄皇子=のちの天智天皇と、中臣鎌足=藤原氏の祖)の子孫の時代にまとめられた歴史書です。そのため、蘇我氏を必要以上に悪く描いている可能性がある、という指摘は昔からあります。近年は、蘇我氏こそ渡来人と結んで仏教や先進技術を取り入れた「開明派」で、外交方針をめぐる路線対立が事件の背景にあった、とする見方も有力です。
645年6月12日(旧暦)、飛鳥板蓋宮の惨劇
立ち上がったのは、皇極天皇の子である中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と、神事を担う中臣氏の中臣鎌足(なかとみのかまたり)でした。二人が近づいたきっかけは、法興寺(飛鳥寺)の槻(つき)の木の下で行われた蹴鞠の会で、皇子の脱げた靴を鎌足が拾って差し出したことだった、と『日本書紀』は伝えます。
645年、朝鮮半島の使者を迎える儀式の場で、中大兄皇子らは皇極天皇の目の前で入鹿を斬りました。
臣、罪を知らず。乞ふ、審察を垂れたまへ。
『日本書紀』皇極天皇4年6月条(斬られた入鹿が天皇に訴えた言葉、読み下し)
翌日には父の蝦夷も自邸に火を放って自害し、馬子から続いた蘇我本家は滅びます。事件の後、皇極天皇は日本史上はじめて生きているうちに位を譲り(譲位)、弟の軽皇子が孝徳天皇として即位しました。都は飛鳥から難波(大阪)へ移されます。
大化の改新——年号と「公地公民」
この年、日本で最初の元号「大化」が定められました。元号は本来、中国の皇帝が時間を支配する印として定めるもので、冊封を受けた国は中国の元号を使うのが原則でした。日本が独自の元号を立てたことは、「中国の家来ではない」という遣隋使以来の姿勢を形にしたものといえます。ちなみに元号は途中で途切れた時期もありますが、現在の「令和」まで続いており、今も公式に元号を使っている国は日本だけです。
646年の正月には、新しい政治の方針として改新の詔が出されたと『日本書紀』は記します。主な内容を、私なりにかみ砕くと次のようになります。
| 柱 | 内容(現代語の要約) | ねらい |
|---|---|---|
| 公地公民 | 皇族や豪族が私有していた土地と人々を、国のものにする | 豪族の力を弱め、天皇のもとに集める |
| 地方の区画 | 都や地方の区画を定め、役人を置く | 全国を一つの仕組みで治める |
| 戸籍と班田 | 戸籍をつくり、それにもとづいて田を分け与える | 人と土地を把握する |
| 新しい税 | 田の広さに応じた租、布や特産物を納める庸・調など | 安定した財源の確保 |
戸籍にもとづいて6歳以上の男女に口分田を配り、亡くなると国に返す仕組みは班田収授法と呼ばれます。唐の均田法がお手本ですが、唐では対象外だった女性にも田を配った点は日本独自です(女子は男子の3分の2)。
改新の詔には「郡(こおり)」という地方区画が出てきます。ところが、藤原宮跡などから出土した7世紀後半の木簡には「郡」ではなく「評(こおり)」と書かれていました。このことから、『日本書紀』の詔の文章は、のちの大宝律令(701年)の言葉で書き直されている、と考えられるようになりました。現在では「646年に改革の方針は出たが、詔の文面そのままの制度が一気に実現したわけではない」と見るのが一般的です。実際、全国的な戸籍(庚午年籍)ができるのは670年、班田が本格化するのはさらに後のことです。
私はこの論争を知って、むしろ大化の改新がリアルに感じられました。改革はスローガンで終わらず、何十年もかけて木簡一枚一枚の現場に浸透していった。その長いプロセス全体が「改新」だったのだと思います。
古墳の終わりと薄葬令
同じ646年に出されたとされるのが薄葬令です。身分ごとに墓の大きさや工事に動員できる人数を制限し、殉死も禁じました。巨大な前方後円墳の時代はすでに終わりつつありましたが、これで豪族が私財と人手を使って大きな墓を造ることはできなくなります。
その後、天皇の墓は方墳を経て、7世紀中ごろから八角墳という独特の形になります。天智天皇陵(京都市山科区)や、天武・持統天皇の合葬陵(奈良県明日香村)がその例です。八角形は天皇が即位の際につく高御座(たかみくら)の形にも通じます。
663年、白村江の敗戦
改革が進む中、朝鮮半島の情勢が急変します。660年、唐と新羅の連合軍が日本の友好国だった百済を滅ぼしました。百済の遺臣たちは日本に助けを求め、日本は百済の王子・豊璋を送り返すとともに大軍を派遣します。
そして663年、朝鮮半島西岸の白村江(はくすきのえ/はくそんこう)で、日本・百済の連合軍は唐・新羅の水軍と激突し、大敗しました。『日本書紀』は、日本側が隊列も整えずに突っ込み、左右から挟み撃ちにされたと記しています。中国側の『旧唐書』にも、唐軍が倭の船400艘を焼き、炎と煙が天を覆ったと書かれています。両国の記録が同じ大敗を伝えているのです。
敗戦が国のかたちを決めた
敗れた日本は、今度は唐・新羅が攻めてくることを本気で恐れました。中大兄皇子は九州の守りに防人(さきもり)を置き、大宰府の前面に巨大な土塁と堀からなる水城(みずき)を築き、さらに百済の技術者の指導で大野城などの山城を西日本各地に造りました。667年には都を内陸の近江大津宮(滋賀県)に移し、翌668年、中大兄皇子は天智天皇として即位します。
なぜ大事か——危機が「天皇中心の国家」を完成させた
乙巳の変から白村江までの約20年を並べてみると、日本は「豪族の連合体」から「天皇を中心とする中央集権国家」へと大きく舵を切っています。その原動力は、理想だけではありませんでした。唐という超大国が隣にいて、実際に百済が滅び、自分たちも戦争に負けた。この切実な危機感が、豪族の既得権を取り上げるような痛みを伴う改革を後押ししたのだと私は思います。
一方で、乙巳の変は「話し合い」ではなく暗殺から始まった改革でもあります。十七条憲法が「和」と「議論」を説いてから約40年。その理想と、血なまぐさい現実との落差をどう考えるかは、この時代を学ぶうえでいちばん考えさせられる点でした。
もし白村江の戦いで日本が勝っていたら、律令国家づくりは同じように進んだでしょうか? 「外からの危機がなければ、改革はもっとゆっくりだったかもしれない」——私はそう考えていますが、皆さんはどう思いますか。
ゆかりの神社・史跡
- 談山神社(奈良県桜井市):中臣鎌足を祀る神社。中大兄皇子と鎌足がこの山で蘇我氏打倒を「談(かた)らった」ことが社名の由来と伝わり、毎年春と秋に「けまり祭」が行われる。
- 飛鳥宮跡(伝飛鳥板蓋宮跡)(奈良県明日香村):乙巳の変の舞台とされる宮の跡。近くの飛鳥寺の西には「入鹿の首塚」と呼ばれる五輪塔がある。
- 水城跡・大野城跡(福岡県太宰府市・大野城市など):白村江の敗戦後に築かれた防衛施設。今も土塁の姿がよく残る。
- 近江神宮(滋賀県大津市):天智天皇を祀る神社。近江大津宮の跡の近くにある。
参考資料:『日本書紀』皇極天皇紀・孝徳天皇紀・天智天皇紀、『旧唐書』劉仁軌伝。引用は読み下し文の一部で、現代語の説明は私によるものです。

