京都の北野天満宮に着くと、梅の匂いが参道に残っています。受験を控えた人が、境内の牛の像の頭を撫で、もう一度手を合わせます。天神さま(てんじんさま)と呼ばれるその神は、平安時代に実在した人、菅原道真(すがわらのみちざね)です。学問の名家に生まれ、文筆と詩歌に優れた才を知られました。朝廷では右大臣まで進み、国の政に当たります。
その人が、なぜ雷の神になり、のちに学問の神になったのか。社の静けさの奥には、恐れから始まった祀りがあります。
無実のまま、九州で死んだ人
政敵の藤原時平(ふじわらのときひら)の讒言(ざんげん)により、道真は無実の罪を着せられ、九州へ左遷されます。都を離れたあと、世の中の異変が、彼の名と結びつけられていきました。西国では藤原純友の乱(ふじわらのすみとものらん)が起き、東国では平将門の乱(たいらのまさかどのらん)が起きます。都ではライバルたちが相次いで亡くなり、災害が続き、ついには宮中に落雷が走りました。人々は、悪いことが続くのは道真が怒っているからだ、と考えるようになります。
左遷から2年後、道真は身の潔白を訴えながら、59歳で亡くなりました。死は、怒りを終わらせません。平安の人は、非業の死を遂げた魂が現れて祟り(たたり)をなすと考え、その魂を畏れと敬意とで御霊(みたま)と呼びました。御霊を鎮め、祟りによる混乱を避けようとする御霊信仰(みたましんこう)が広がり、天神さまの信仰はそこから始まります。当初の天神さまは、怒る神であり、天変の神でした。怨霊を鎮めるための祭祀が、天満宮の出発点です。
没後、道真は火雷天神(からいかづちのてんじん)になった、と人々は見るようになります。天候を司る神です。朝廷は、右大臣の位を戻してなぐさめようとしました。恐れが先にあり、官位の回復は、その恐れへの返事です。
二つの社が、怒りを引き受ける
天神信仰の中心は、二つの天満宮です。道真が亡くなった地、大宰府、いまの福岡県太宰府市に廟所(びょうしょ)を建て、御霊を祀ったのが太宰府天満宮(だざいふてんまんぐう)です。墓所のある場所であり、総本社として崇敬されています。
京都の北野天満宮(きたのてんまんぐう)は、ある神職の息子と巫女に神託(しんたく)があり、創祀されたと伝えられます。初めから朝廷の守護神として大切にされ、怨霊を鎮めるための社として建てられました。どちらの創建も、怒りを放置しない、という判断から始まっています。
時代とともに、ご神徳は広がっていきました。朝廷の守護、和歌と連歌、農耕、天候、そして無実の罪を晴らすこと。道真の生前の仕事と、死後の恐れとが、一つの神の複数の顔になっていきます。天候の神としての号が、天満大自在天神(てんまんだいじざいてんじん)であり、火雷天神です。火と雷の神として天火雷命(あめのほのいかづちのみこと)の名を挙げる語りもあります。道真の号は、その雷のイメージを、一人の人の怒りに重ねたものでした。天神という言葉自体、もともと天の神を意味します。古事記は高天原の神々を天津神(あまつかみ)、地上の神々を国津神(くにつかみ)と分けます。人が天神になる、という形は、神話の神々とは別の信仰です。
牛の頭と、飛んできた梅
江戸時代になると、天神さまは特に学問の神として広がります。寺子屋(てらこや)や藩校(はんこう)でも祀られ、学ぶ人の祈りの相手になりました。いま、受験生や研究者が訪れる社の風景は、その延長です。牛の像を撫でると頭が良くなる、と言われます。牛は、道真の生誕と没に丑(うし)の日が関わることから結びついた象徴です。道真は梅を愛し、飛梅(とびうめ)の伝説が残ります。左遷のとき、京都の梅が本人を慕って大宰府へ飛んできた、という話です。
北野の梅の下で手を合わせる人も、太宰府の墓所の前で頭を下げる人も、見ているのは同じ生涯です。怒りの雷として恐れられた人が、言葉と学問の神として頼られるようになりました。寺子屋の棚に小さな天神を置いた町も、藩校で詩を学んだ部屋も、道真の文筆を、自分の机の守りに読み替えています。牛の頭を撫でる手は、雷を恐れた都の手とは別の温度です。それでも社の奥にいるのは、59歳で潔白を訴えた、あの右大臣のままです。
次に向かう山は、一人の怨霊を鎮める社とは別に、死者の国そのものと畏れられた土地です。熊野三山が、その先にあります。


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