和歌山県の山中に入ると、社殿より先に水の音が来ることがあります。熊野那智大社の傍らでは、那智の滝(なちのたき)が神体として崇敬されています。落差133メートル、日本一の単落瀑布と呼ばれる一筋の水が、岩を削りながら落ちています。熊野三山(くまのさんざん)は、この那智と、本宮と、速玉の三社です。紀伊山地に鎮座し、古くは死者の国として畏れられ、平安時代には神仏習合の重要な地となりました。いまは世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成資産でもあります。
熊野は、火山活動の活発な土地でもあります。その記述は日本書紀に残ります。厳しさと神聖さが同じ地面に重なり、特別な信仰の対象になっていきました。
三つの社に、三柱の神
熊野三山は三社一体の信仰です。ご祭神は、社ごとに別の神です。
熊野本宮大社(くまのほんぐうたいしゃ)のご祭神は、家津美御子大神(けつみみこのおおかみ)、素盞嗚尊(すさのおのみこと)です。創祀は今から2000年以上前、崇神天皇65年と伝えられます。熊野速玉大社(くまのはやたまたいしゃ)のご祭神は、速玉之男大神(はやたまのおおかみ)、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)です。創祀は景行天皇58年(128年)と伝えられます。熊野那智大社(くまのなちたいしゃ)のご祭神は、熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)です。創祀は仁徳天皇5年(317年)と伝えられます。
三柱は、国生みと黄泉の物語の中心にいる神々と結ばれています。伊弉諾尊と伊弉冉尊は国々を生み、伊弉冉尊は黄泉の国へ去りました。伊弉諾尊は黄泉から帰り、穢れを禊で落とします。その禊のなかで生まれた一柱が、素盞嗚尊です。本宮の家津美御子大神は、この素盞嗚尊と同一視されてきました。速玉之男大神は伊弉諾尊そのものと重ねられ、那智の熊野夫須美大神は伊弉冉尊と結びつけられます。黄泉を治める神、穢れを落とす神、荒ぶる神。死者の国と畏れられた土地に、この三つの顔が分けて置かれました。本宮は川の神域に素盞嗚尊を見、速玉は禊の神を海に近い杜へ置き、那智は滝の水そのものを伊弉冉尊の側へ重ねます。三社を巡るとは、国生みから黄泉までの物語を、足でたどることでもあります。
観音と、道を歩く人々
神仏習合の時代、熊野は仏教の要素も取り込んだ信仰の地になります。それぞれの祭神は本来別々の神ですが、その時代には千手観音も祀られていた、と考えられています。修験道や浄土教とも深く結びつき、時宗の開祖・一遍上人(いっぺんしょうにん)が熊野を訪れ、神託を受けた、という伝承も残ります。神と仏が、同じ山で祈られていました。
全国へ信仰を運んだのは、熊野御師(くまのおし)と熊野比丘尼(くまのびくに)です。御師は、参詣者の宿泊と祈祷の世話をしました。熊野詣での案内人であり、祈祷師でもあります。比丘尼は全国を歩き、熊野の信仰を各地へ伝えました。二人の働きが、全国に熊野神社が勧請されるきっかけになります。
古くは死者の魂が旅立つ場所として畏れられた土地です。神聖であり、自然は厳しい土地でした。平安時代の神仏習合のなかで、熊野は有馬温泉などの湯の地とも結びつけて語られるようになります。参詣と療養が、一つの旅になった、という伝えです。火山の記憶が日本書紀に残るように、湯も滝も、信仰と切り離せません。
三つの道が、いまも山へ入る
熊野三山への参詣は、紀伊参詣道(きいさんけいどう)を通じて行われてきました。京都や伊勢から続く道には、中辺路(なかへち)、小辺路(こへち)、大辺路(おおへち)があります。平安時代以降、皇族も貴族も、庶民も歩きました。道沿いでは御師が旅人を案内し、宿と祈祷を引き受けます。比丘尼が全国を巡ったことと重なり、三山の信仰は列島の奥まで根を下ろしました。これらの道は、いま世界遺産として保護されています。
那智では、滝の飛沫が社の空気を湿らせています。本宮では、山と川に挟まれた社域が、家津美御子の名を湿った空気のまま抱えています。速玉では、海に近い杜が、速く強い玉、という神名をそのままの湿度で抱えています。中辺路を歩く人は尾根を越え、小辺路を選ぶ人は山を縦に抜け、大辺路は海岸を長くたどります。どの道でも、昔は御師の宿が旅人を待ち、比丘尼の話が次の村へ信仰を先回りさせていました。死者の国へ、生きた人が歩いて入れるようになったのは、道と案内人があったからです。
一遍上人が神託を受けたと伝えられる山は、今も、千手観音が祀られた時代の層を社の周囲に残しています。神と仏と、湯と滝とが、一つの参詣のなかに重なっていました。
湖の岸へ場所を移すと、次に待っているのは諏訪大社と、6年に一度の御柱祭です。


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