冬の乾いた午後、京都の西に愛宕山が壁のように立っています。石段を上りきると、町の屋根は低く、風は杉の匂いだけを運んできます。ここに人が頭を下げる相手は、火そのものを預かる神です。通称の愛宕さん(あたごさん)は、京都府の愛宕神社(あたごじんじゃ)を指します。同じ火を、静岡では秋葉さん(あきばさん)と呼びます。
祭神の名は違い、求める力は重なる
愛宕神社のご祭神と、秋葉山本宮秋葉神社(あきばさんほんぐうあきばじんじゃ)のご祭神は、名前が違います。両方に人が求めてきたのは、火の神様としての力です。火は煮炊きを支え、夜を明るくします。制御を誤れば、町を一晩で失わせます。鎮め、火事を防ぐ働きを、火防(かぼう)と呼びます。
愛宕山は、京都を見下ろす高い山です。山の神として仰がれ、火の神の御力を持つと崇められてきました。神仏習合の時代、ここは愛宕山大権現(あたごさんだいごんげん)と呼ばれます。修験者は尾根に籠もり、その力を身に受けようとしました。登る修行と、火を鎮める祈りは、同じ山の上で一つになります。
秋葉信仰の総本社は、静岡県浜松市天竜区に鎮座する秋葉山本宮秋葉神社です。京都の山と遠州の山。社も祭神の名も別のまま、人は両方を、火の前に置く神として覚えてきました。
武士の陣から、町人の夜回りへ
戦国時代、火は戦の道具でもありました。陣を焼き、夜を照らし、兵糧を炊く。火を使う側にいた武士にとって、火を制御する神の力は、勝敗の条件に近いものでした。愛宕と秋葉が武士の信仰を集めたのは、その必要からです。
信仰は、のちに京都から江戸へ伝わります。江戸は木造建築が密集する都市で、火事は最大の災害のひとつでした。灯をともし、店を守る町人(ちょうにん)の毎日にも、火を扱う手はありました。火の用心(ひのようじん)。夜回りが唱えるその言葉は、注意の標語であると同時に、火の神へ向ける祈りの名でもありました。
商家や武家屋敷の敷地には、愛宕神社や秋葉神社の分社(ぶんしゃ)が祀られることが多くなります。総本社と総本宮を中心に、全国へ分社と末社が建ちました。江戸時代以降、都市のなかに小さな愛宕や秋葉が増え、町の火の守護になります。町火消(まちびけし)の組織が整っていくあいだも、予防と鎮火の願いは、社の前に置かれ続けました。
剣が食の神に触れた場面
古事記を開くと、火は恵みと災いの両方の形で現れます。伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が禊をするくだりでは、身を清めるあいだに多くの神が生まれます。火防の神を語る人は、その場面に、光と熱を与え、同時に焼き尽くす力を重ねて読んできました。もう一つのくだりでは、スサノオ(素戔嗚尊)が保食神を剣で討ちます。食を生み出す神と、切るものの力が、同じ場でぶつかります。鉄と火は暮らしを豊かにし、暮らしを終わらせもする。その相克を知っているから、人は火の神に、火を預かることを願いました。
秋葉信仰には、別の伝えもあります。火事で亡くなった女性が、火の神となった、という伝説です。人の命と火の力が、不幸のあとで神の名に結び直される。畏れは、そこからさらに深くなります。
12月の松明と、2月の最初の辰
秋葉神社では、毎年12月15日と16日に、秋葉神社の火祭り(あきばじんじゃのひまつり)が行われます。松明(たいまつ)が夜を焦がし、火の神への感謝と、翌年の火災除けが、同じ炎のなかで願われます。寒い季節に火を大きく燃やすのは、頼る気持ちと恐れる気持ちを、同時に外へ出すためです。
愛宕神社では、毎年2月の最初の辰(たつ)の日に、初辰祭(はつたつさい)があります。辰の日は火の神に関わる日とされ、火災除けを求める人が山道を上ります。初辰(はつたつ)の朝に登る人と、12月の夜に松明を見上げる人は、離れた暦で同じことをしています。
いまも両方の社には、火災除けと家内安全を願う人が訪れます。京都の山の上、浜松の火祭りの夜、自宅の敷地に残る小さな分社。玄関の札を確かめる手つきのなかに、その三つはまだ生きています。
火を預けた人は、次に、自分では漕げない海のほうへも神を探しました。瀬戸内を行く船が頭を下げる、こんぴらさんと海上安全の話です。


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