京都に着くと、賀茂川(かもがわ)が町の南北を貫いています。その川を挟んで、一対の古い社が鎮座します。上流、京都市北区にあるのが上賀茂神社(かみがもじんじゃ)、別名は賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)です。下流、京都市左京区にあるのが下鴨神社(しもがもじんじゃ)、別名は賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)です。ともに賀茂神社(かもじんじゃ)と呼ばれ、京都でも最も古い部類の社として、皇室から崇敬されてきました。
賀茂の氏が、川の上下を守った
上賀茂神社は賀茂川の上流、下鴨神社は下流に位置します。古代の賀茂氏(かもうじ)の氏神として発展し、賀茂氏が朝廷に仕える強大な氏族であったことと重なって、両社は皇室の守護神としても仰がれました。川の水が、二つの社を一本の信仰に結んでいます。
三足の烏が、熊野で道を開いた
主祭神は賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)です。賀茂の伝承は、この神が八咫烏(やたがらす)、三足の烏に姿を変えたと語り、その筋は古事記と日本書紀の神武東征に重ねられてきました。神武天皇(じんむてんのう)が東征のとき、熊野の海で道に迷い、軍が疲弊します。空から八咫烏が現れ、天皇の軍を導きました。この烏は賀茂建角身命の化身とされ、勝利へ至る道を示した神の使いとして崇敬されてきたのです。鳥は、神と人のあいだを取り持つ存在として、その場面に立っています。
もう一柱、玉依姫命(たまよりひめのみこと)がいます。賀茂建角身命の妃として、賀茂氏の祖神ともされる女神です。下鴨神社では玉依姫命を主に祀る側面が強く、上賀茂と下鴨で祀り分けがあるとされてきました。川の上流と下流は、神の配置でも少しずつ違います。
会いたければ、祭りをせよ
創建を語る伝えは、こうです。古代、賀茂川のほとりに住む女性が、神の託宣を受けます。私に会いたければ祭りをせよ。人々が祭りを催すと、神は白馬に乗って現れ、玉依姫命と結婚し、賀茂建角身命として鎮座した、とされます。祭りは、神に会うための条件でした。この言葉は、葵祭(あおいまつり)の起源とも結びつけられてきました。祭りの場が、神と人が出会う場所だった、という信仰が、賀茂の祭祀の底に流れています。
葵を頭に挿して、二つの社を歩く
葵祭は毎年5月15日に行われ、賀茂祭(かもまつり)とも呼ばれます。祇園祭、時代祭とともに、京都三大祭りのひとつです。上賀茂神社と下鴨神社を結ぶ路次行列(ろじこうれつ)が中心で、平安の風俗を今に伝える、生きた王朝絵巻とも称されます。行列には天皇の勅使(ちょくし)が加わり、古い装束で練り歩きます。葵(あおい)の名は、行列の人が葵の葉を頭に飾ることに由来します。賀茂の氏神を祀る祭りとして、古くは朝廷の公事であり、いまも皇室の使者が参向する格式を保っています。
二つの社の境内には、それぞれ御手洗川(みたらしがわ)が流れています。神前の禊(みそぎ)や手水の場として、清い水が扱われてきました。下鴨神社の境内は、糺の森(ただすのもり)と呼ばれる原生林に囲まれ、都のただなかに古代の森の姿を残します。1994年、賀茂の社は「古都京都の文化財」の一部としてユネスコ世界遺産に登録されました。川と森と行列。賀茂の信仰は、水辺のまま残った森と、朝廷の公事が、同じ土地で続いていることを示しています。
5月15日の路次行列を道の端で見ていると、祭りが神に会うための条件だった、という創建の言葉が、行列の長さになって分かります。葵の葉を頭に飾った人、勅使、平安の装束。上賀茂と下鴨のあいだを歩くその列は、賀茂川の上流と下流を、一日だけ一つの祭祀に戻します。祇園祭、時代祭と並んで京都三大祭りの一つと呼ばれる行列は、朝廷の公事が、いまでも皇室の使者を送っている姿でもあります。熊野の海で迷った軍にとって、八咫烏は次の一歩を示す案内でした。三足の烏が空を行き、人がその下を歩く。賀茂建角身命をその化身と見る伝承は、道に迷った側の気持ちから読むと、よく分かります。勝利の前に必要だったのは、正しい方向だったからです。糺の森の暗さと、御手洗川の冷たさが、行列の外側でその格式を受けています。
川をさらに上流へたどると、水そのものを神として迎える社があります。貴船神社の話です。


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