前回は、古墳の時代の暮らしと仏教の伝来を見ました。今回からは飛鳥時代の本番です。主役はおなじみの聖徳太子。でも、私(ぽっちゃん)が改めて調べてみて面白かったのは、「太子が何をしたか」よりも「なぜ、あのタイミングでそれをする必要があったのか」のほうでした。この記事では、冠位十二階と十七条憲法を、当時の国際情勢と一緒に読み直してみます。
589年、東アジアの空気が変わった
6世紀の終わり、中国では約300年ぶりに統一王朝が生まれます。589年に南の陳を滅ぼした隋です。隋は戸籍にもとづいて土地を配り、税と兵役を課し、試験で役人を選ぶ仕組みを整えた、当時としては飛び抜けて「よくできた国家」でした。
朝鮮半島の高句麗・百済・新羅は、すぐに隋へ使いを送ります。ところが倭(日本)は、すぐには動きませんでした。最初の遣隋使は600年、隋の統一から11年後です。私はこの「11年の空白」が気になりました。国内で蘇我氏と物部氏の争い(587年)があり、崇峻天皇の暗殺(592年)まで起きているので、外に目を向ける余裕がなかった、というのが素直な読み方だと思います。
推古天皇・聖徳太子・蘇我馬子のトリオ
592年、初の女性天皇となる推古天皇が即位します。翌593年、甥の厩戸皇子(うまやとのみこ、のちの聖徳太子)が政治を補佐する立場につき、天皇の叔父にあたる大臣蘇我馬子と協力して国を動かしました。
| 人物 | 立場 | ひとこと |
|---|---|---|
| 推古天皇 | 第33代天皇 | 蘇我馬子の姪。約36年の長い在位 |
| 聖徳太子(厩戸皇子) | 皇太子・政治の補佐 | 仏教と学問に通じた皇族 |
| 蘇我馬子 | 大臣(おおおみ) | 587年に物部守屋を倒し、最大の実力者に |
よく「太子が改革した」と一人の手柄のように語られますが、『日本書紀』を読むと、太子と馬子が並んで登場する場面が多いのです。私は、この時代の改革は「天皇家と最有力豪族の共同事業」と見たほうが実態に近いと感じました。
最初の遣隋使で突きつけられた「格の違い」
600年の第1回遣隋使は、実は『日本書紀』には書かれていません。記録が残るのは中国側の歴史書『隋書』倭国伝です。そこには、倭の使者が自国の政治のやり方(天を兄、日を弟とし、夜明け前に政務をとる、など)を説明したところ、隋の文帝が「これ太(はなは)だ義理なし」と言って改めさせた、という場面があります。
此れ太だ義理なし。是に於いて訓へて之を改めしむ。
『隋書』倭国伝(読み下し・一部)
日本側の記録にないのは、恥ずかしい出来事だったからではないか、という見方もあります。いずれにしても、この体験が「このままでは相手にされない」という危機感につながり、国内改革の引き金になったと考えると、その後の流れがすっきり理解できます。
冠位十二階(603年)——生まれより能力で
603年に定められた冠位十二階は、役人の位を12段階に分け、冠の色で見分けられるようにした制度です。それまで豪族の地位は、どの氏(うじ)に生まれたかでほぼ決まっていました。冠位は個人に与えられるので、功績や能力によって昇進できる道が開かれたことになります。
| 位 | 色(推定) |
|---|---|
| 大徳・小徳 | 紫 |
| 大仁・小仁 | 青 |
| 大礼・小礼 | 赤 |
| 大信・小信 | 黄 |
| 大義・小義 | 白 |
| 大智・小智 | 黒 |
面白いのは並び順です。儒教で重んじる徳目は「仁・義・礼・智・信」の順が一般的ですが、冠位十二階は「徳・仁・礼・信・義・智」。しかも最上位の「徳」を独立させています。中国の制度をそのまま写したのではなく、日本なりに組み替えた跡が見えます。なお、色の割り当ては『日本書紀』に明記がなく、後世の研究による推定である点には注意が必要です。
もう一つ見落とされがちなのが、蘇我氏の大臣はこの冠位の外にいたらしいことです。つまり「全員を一つの物差しで並べる」ところまではまだ行っていない。そこに、のちの大化の改新へ続く「やり残し」があったと私は考えています。
十七条憲法(604年)——役人への「心がまえ」
翌604年、太子は十七条憲法をつくったと『日本書紀』は伝えます。現代の憲法のような国の基本法ではなく、役人が守るべき道徳的な心得を並べたものです。
一に曰く、和を以て貴しと為し、忤ふること無きを宗とせよ。
『日本書紀』推古天皇12年4月条
第1条の「和」が有名ですが、私が全文を読んで印象に残ったのは第17条でした。大事なことは一人で決めず、必ずみんなで議論せよ、という内容で、第1条と最後の第17条が「話し合い」でつながっています。最初と最後を同じテーマで挟む構成は、書き手がいちばん伝えたかったことの表れではないでしょうか。ほかにも「仏教を敬え(第2条)」「天皇の命令には必ず従え(第3条)」「早く出勤し遅く退出せよ(第8条)」など、今の職場にも通じそうな条文が並びます。
十七条憲法については、大正〜昭和の歴史学者・津田左右吉が「『国司』など推古朝には不自然な言葉がある」として、のちの時代の作ではないかと論じました。一方で、文章の古さなどから太子の時代のものと見る研究者もおり、決着はついていません。また近年は、超人的な逸話をもつ「聖徳太子」像は後世に形づくられたもので、実在の人物としては「厩戸王(厩戸皇子)」と呼ぶべきだ、という議論もあります。教科書の表記が揺れたのはこのためです。
私自身は、条文の一字一句がいつ書かれたかとは別に、「和」と「話し合い」を役人の心得の最初と最後に置くという発想が、この時代の日本で大切にされていた、という点に価値があると思っています。
豪族は古墳から寺へ
この時代、もう一つの大きな変化が起きています。豪族たちが巨大な古墳をつくるのをやめ、代わりに一族の寺(氏寺)を建て始めたのです。蘇我馬子の飛鳥寺(588年着工)は日本で最初の本格的な寺院とされます。聖徳太子は大阪の四天王寺や、奈良・斑鳩の法隆寺を建てたと伝わります。
権力の見せ方が「墓の大きさ」から「寺の立派さ」へ移った——そう考えると、仏教の受け入れは信仰の問題であると同時に、政治と文化の大きなモデルチェンジだったことが分かります。この流れは646年の薄葬令で決定的になります(次々回で扱います)。
なぜ大事か——「中国に学び、中国に従わない」の出発点
冠位十二階と十七条憲法は、どちらも「国を一つの組織として動かすためのルールづくり」でした。そして、その目的は単なる国内整備ではなく、強大な隋と向き合っても侮られない国になることでした。
私が一番大事だと思うのは、ここで「進んだ制度は学ぶ、でも相手の家来にはならない」という日本の外交の基本姿勢が生まれた点です。次回は、それが実際の外交でどう表れたのか、有名な「日出づる処の天子」の国書を読みます。
十七条憲法の中で、今のあなたの学校や職場にもそのまま通用しそうな条文はどれでしょう? 私は第10条「自分と違う意見に腹を立てるな」が、いちばん耳が痛かったです。
ゆかりの神社・史跡
- 法隆寺(奈良県斑鳩町):太子ゆかりの寺。現存する世界最古の木造建築群として世界遺産に登録。
- 四天王寺(大阪市天王寺区):太子が建立したと伝わる寺。伽藍が一直線に並ぶ「四天王寺式伽藍配置」で知られる。
- 橘寺(奈良県明日香村):太子誕生の地と伝わる寺。
- 叡福寺(大阪府太子町):境内に聖徳太子の御廟(墓所)がある。
参考資料:『日本書紀』推古天皇紀(十七条憲法・冠位十二階)、『隋書』倭国伝。引用は読み下し文の一部で、現代語の説明は筆者によるものです。

