卑弥呼と邪馬台国。日本の古代史でもっとも有名な謎のひとつは、中国の歴史書にだけ記されています。
目次
三国時代の中国と倭
3世紀、中国では後漢が滅び、魏(ぎ)・呉(ご)・蜀(しょく)の三国が争っていました。この時代の歴史書『三国志』(陳寿著)のうち、魏の歴史をまとめた部分に、倭人についての記事があります。これを一般に『魏志』倭人伝と呼びます。『後漢書』より100年以上早く書かれ、史料として重視されています。
倭人伝が伝えること
| 項目 | 倭人伝の内容(要約) |
|---|---|
| 場所 | 帯方郡(朝鮮半島中西部の拠点)の東南の海の向こう |
| 国の数 | かつて百余国、いまは使いを送る国が三十ほど |
| 女王 | 男王の時代に乱れ、のちに卑弥呼が立てられた |
| 卑弥呼 | 鬼道(まじない)を使い、夫はなく、弟が政治を助けた |
| 239年 | 魏に使いを送り、「親魏倭王」の称号と金印、銅鏡百枚などを授かる |
| その後 | 卑弥呼の死後、大きな墓が造られ、男王が立つが治まらず、少女の壱与(いよ)が立って治まった |
邪馬台国は約三十の小国を従え、身分の差もあった社会として描かれています。
どこにあったのか
倭人伝に書かれた道のりを、そのまま地図の上でたどると、九州のはるか南の海に出てしまいます。距離か方角のどこかを読み替えなければならず、そのため九州説と畿内説の論争が、200年以上も続いています。
しかも、卑弥呼や邪馬台国の名は日本側の記録には出てきません。中国の史料でも、倭人伝とそれをもとにした書物にしか現れないのです。
大和国家との関係は
倭人伝は卑弥呼の死を247年ごろとしています。3世紀は、纒向で前方後円墳が造られ始めた時期と重なります。もし記事が正しければ、邪馬台国は大和国家に組み込まれていった一地方の勢力だったか、あるいは大和国家そのものだったか、どちらかということになります。答えはまだ出ていません。
倭人伝を自分で読み、地図に道のりを書き込んでみると、論争が続く理由がよく分かります。

