弥生時代の日本には、まだ文字がありません。それでも当時の様子が少し分かるのは、中国の歴史書に「倭(わ)」のことが書き残されているからです。
秦から漢へ
紀元前221年、秦の始皇帝が中国を初めて統一しました。全国を郡と県に分けて役人に治めさせ、文字・貨幣・度量衡を統一し、北方の匈奴(きょうど)に備えて万里の長城を築きます。しかし始皇帝の死後に反乱が続き、秦はわずか15年で滅びました。
次に中国をまとめたのは劉邦(りゅうほう)の漢です。紀元前2世紀後半の武帝の時代には、中央アジアから朝鮮半島北部まで支配を広げました。途中で一度、新(しん)に倒されますが復活し、合わせて約400年続きます。前半を前漢、後半を後漢と呼びます。ローマ帝国とは、絹の道シルクロードを通じて品物がやり取りされました。
漢の時代には、孔子(こうし)の教えである儒教が重んじられました。親を大切にする「孝」、思いやりの「仁」、ふさわしい振る舞いの「礼」などを大切にする考え方です。インドで生まれた仏教が中国に伝わったのもこの時代でした。220年に後漢が滅びると、魏・呉・蜀が争う三国時代に入ります。
正史と、朝貢・冊封
中国では、王朝が倒れると、次の王朝が前の王朝の公式の歴史書を作りました。これを正史といいます。書くのは次の王朝なので、前王朝の最後の皇帝は悪く書かれやすい、という点は頭に入れておきたいところです。
周りの国が中国の皇帝に貢ぎ物を差し出すことを朝貢といいます。皇帝はその見返りに「〇〇国王」などの称号や官職を与え、相手を自分の臣下として位置づけました。この外交のしくみを冊封体制と呼びます。
『漢書』地理志——百あまりの国
倭が最初に登場するのは、前漢の正史『漢書』地理志です。紀元前1世紀ごろの様子として、楽浪郡の海の向こうに倭人がいて、百あまりの国に分かれ、定期的に使いを送ってくる、と短く記しています。原文は「楽浪海中有倭人、分為百余国、以歳時来献見云」。
楽浪郡は、前漢の武帝が紀元前108年に朝鮮半島に置いた拠点(漢四郡のひとつ)で、現在の平壌(ピョンヤン)付近にあったとされます。倭の使いは、ここへ出向いていたと考えられます。
『後漢書』東夷伝——金印と倭国大乱
後漢の正史『後漢書』東夷伝には、より具体的な記事があります。
| 西暦 | 『後漢書』東夷伝の記事(要約) |
|---|---|
| 57年 | 倭の奴国(なこく)が使いを送り、光武帝が印綬を与えた |
| 107年 | 倭国王の帥升(すいしょう)らが、生口(奴隷)160人を献上した |
| 2世紀後半 | 桓帝・霊帝のころ、倭国が大いに乱れ、長く王がいなかった |
57年の記事に対応するとされるのが、江戸時代に福岡県の志賀島(しかのしま)で見つかった金印です。刻まれた文字は「漢委奴国王」。ただし、この奴国と、のちの大和朝廷との関係は分かっていません。「倭」も「奴」も、相手を低く見る意味を含む字で、周りの国を野蛮とみなす中国の中華思想が表れています。
2世紀後半の倭国大乱の記事は、同じ時期に西日本で、見晴らしのよい山の上に高地性集落が作られたこと、吉野ヶ里のような環濠集落が栄えたことともよく合います。
朝鮮半島のあゆみ
朝鮮半島では、約1万2000年前から数千年の間、人の活動の跡がほとんど見つかっていません。再び人の痕跡が現れるのは約8000〜7000年前で、半島で最も古い土器のひとつ、隆起文土器が出てきます。日本ではその何千年も前から縄文土器が使われており、隆起文土器は縄文土器の影響を受けたという説もあります。実際、半島で縄文土器が、日本で隆起文土器が出ています。
遺伝子の研究でも、縄文時代にあたる時期の半島南部の人々と、北部九州の縄文人とは近い関係にあったことが分かってきました。海をはさんだ行き来は、思った以上に古くからあったようです。
考古学で確かめられる半島最初の王朝は、紀元前2世紀の衛氏朝鮮(えいしちょうせん)です。100年もたたずに漢の武帝に滅ぼされ、半島北部は約400年にわたり漢の直接支配を受けました。紀元前後には北部に高句麗(こうくり)が興り、やがて313年に楽浪郡を滅ぼします。
「倭」という字の意味を、冊封を受けたほかの国の呼び名と並べて調べてみると、中国が周りの国をどう見ていたかが見えてきます。

