白村江の敗戦のあと、日本は「唐が攻めてくるかもしれない」という緊張のなかで国のかたちを急いで整えました。その約四〇年のあいだに、古代最大の内乱・壬申の乱が起き、大宝律令が定められ、外に向かっては「日本」という国号が使われはじめます。私はこの区間を、「危機が中央集権を完成させた」時代だと見ています。前回の乙巳の変〜白村江の続きとして、読み直してみます。
天智天皇と、敗戦のあとの備え
663年の白村江のあと、中大兄皇子は九州に防人を置き、水城や朝鮮式山城を築きました。唐は高句麗攻略に忙しく、日本本土での決戦には至りませんでした。667年に近江大津宮へ遷都し、668年に即位して天智天皇となります。670年の庚午年籍は、日本で初めての全国的な戸籍とされます。
百済滅亡後は、多くの百済人が日本へ渡りました。朝廷は彼らを迎え入れ、国の運営の知恵を積極的に学びました。私はここを、「敗戦の教訓を、制度づくりに回した瞬間」だと感じています。
672年、壬申の乱
天智天皇の死後、皇子の大友皇子と弟の大海人皇子が皇位をめぐって争いました。古代最大の内乱・壬申の乱です。大海人皇子が勝ち、飛鳥浄御原宮で即位して天武天皇となります。
『日本書紀』によれば、大友側には蘇我氏・中臣氏など大豪族の多くがつき、大海人側には地方の中小豪族がついた、とされます。結果として有力豪族が没落し、天皇の権威が高まった、というのが教科書的な整理です。
壬申の乱の評価には幅があります。「天皇権力の強化」だけでなく、近江と飛鳥の政権対立、あるいは東国の軍事力の比重など、複数の軸で読む研究もあります。『日本書紀』自体が天武系の視点で編まれているため、勝者と敗者の描き方にはバイアスがある、という指摘は押さえておきたいところです。
持統天皇・藤原京・大宝律令
天武のあと、皇后だった持統天皇が継ぎます。694年完成の藤原京は、中国の都を模範にした大規模な都で、複数代にわたって使うことを想定した初めての京とも説明されます。持統は庚寅年籍も作りました。
そして文武天皇の大宝元年(701年)、大宝律令が定められます。中央に神祇官と太政官(二官)、太政官の下に八省。地方は五畿七道に分け、国には中央から国司を、郡には地方豪族出身の郡司を置き、里には里長を置く——いわゆる国郡里制です。九州北部の大宰府は外交・防衛と九州行政の窓口でした。
| 区分 | 役割のイメージ |
|---|---|
| 中央 | 天皇のもとに神祇官・太政官、八省で実務 |
| 地方 | 国司(中央派遣)—郡司(在地)—里長 |
| 要地 | 京職・摂津職・大宰府など |
「日本」を名乗ることの意味
大宝律令では詔書に「日本天皇」と記すことが定められ、「日本」の国号と「天皇」の称号が法律で明文化された、と教科書はまとめます。702年の遣唐使は、唐に対して「日本」を称した早い例です。『旧唐書』は「日の辺に在るを以て」などと理由を記しつつ、「実を以て対へず」「中国これを疑ふ」とも書いています。
日本国は倭国の別種なり。その国、日の辺に在るを以て、故に日本を以て名となす。
『旧唐書』(要約・読み下しの一部)
私は、推古朝の「日出づる処の天子」と同じ発想が、ここで国号として定着していく流れだと感じます。なお、対外的な「日本」の記録としては、698年に新羅へ「日本国使」が至ったとする『三国史記』の記事が、より早い例として挙げられます。
和同開珎と平城京——律令国家の「完成形」
708年、武蔵で和銅が見つかり元号が和銅に改められ、同年和同開珎が鋳造されます(先行する富本銭もあります)。710年の平城京遷都で、聖徳太子・大化の改新以来の道のりが一つの形になった、というのが教科書の締めくくりです。以後、原則として冊封を受けず、遣唐使で学び続ける——この姿勢が長く続きます。
大宰府という「もう一つの都」
九州北部の大宰府は、外交と防衛、そして九州行政の窓口でした。白村江後の水城や朝鮮式山城とセットで見ると、律令国家は都だけが完成形ではなく、「西の玄関」を先に固めてから全国の法を敷いたように見えます。私は福岡の水城跡に立ったとき、土塁の長さに、敗戦の記憶の厚みを感じました。
税のしくみをのぞく
大化以来の租・庸・調は、このころには年齢区分と結びついて整理されます。正丁(21〜60歳の男性)が庸・調の中心で、中男や次丁は負担が軽い。雑徭は地方の労役です。租は男女共通で収穫のおよそ3%。数字だけ見ると軽く感じますが、輸送や雑徭を含めると暮らしへの圧は小さくありませんでした。兵役も成人男子のおよそ3人に1人で、衛士や防人に回されることがありました。
私は、律令の「完成」を、罰則の厳しさより先に、こうした人口把握と負担の設計が全国に伸びていった過程として見たいです。木簡や戸籍の断片が残る時代だからこそ、スローガンではなく現場の手続きが追えます。
富本銭という「もう一つの最初」
和同開珎の前に、天武朝ごろの富本銭があります。日本最古級の銅銭とされる一方、流通の実態はなお議論があります。和同開珎は畿内を中心に広がり、渤海や唐の遺跡からも出土例が報告されています。貨幣は、都の市場と、国家の権威を同時に運ぶ道具でした。
二官八省を「地図」で見る
太政官の下の八省——中務・式部・治部・民部・兵部・刑部・大蔵・宮内——は、いまの省庁の祖先を思わせます。神祇官が並列にあることで、祭祀と行政が制度上わかれていた点も忘れがちです。地方の国司は任期つきの中央官、郡司は在地の継続性。この二層が、のちの摂関・幕府でも形を変えて生き残る「中央と地方の緊張」の原型だと思います。
なぜ大事か
この約四〇年は、「外の脅威」と「内の内乱」の両方を経て、天皇を中心とする律令国家が法と都と戸籍で立ち上がる過程です。国号「日本」の対外使用は、外交上の自己申告であると同時に、国内向けのアイデンティティ宣言でもあったと思います。
律令の条文そのものより、私は「独自の律令を持つこと」が独立の証だという指摘に惹かれます。冊封下の国が宗主の法を使うのが常なら、自前の律令は外交上の宣言でもあります。大宝二年の遣唐使が「日本」を名乗ったことと、セットで覚えると忘れにくいです。
もし壬申の乱で大友皇子側が勝っていたら、大宝律令や「日本」国号の打ち出し方は、同じように進んだでしょうか。皆さんはどう想像しますか。
ゆかりの神社・史跡
- 近江神宮(滋賀県大津市):天智天皇を祀る。
- 飛鳥浄御原宮跡(奈良県明日香村):天武・持統の宮の舞台。
- 藤原京跡(奈良県橿原市・明日香村など):条坊制の都の遺跡。
- 大宰府跡・水城跡(福岡県):外交と防衛の拠点。
今回の記事では、教科書の骨組みを踏まえつつ、一次史料の短い引用と「ほかの見方」で厚みを出すことを意識しました。年号は半角の算用数字で統一しています。
参考資料:『日本書紀』天武紀、『旧唐書』倭国・日本国条、『三国史記』。引用は読み下し・要約の一部で、現代語の説明は私によるものです。

