京都府八幡市の石清水八幡宮に着くと、山の緑が社殿より先に目に入ります。石段を上った人は、八幡さん、と短く呼んで柏手を打ちます。その一声が指している相手を、その場で説明する人は多くありません。全国に約2万社ある八幡神社の主祭神は、第15代の応神天皇です。母は神功皇后、父は仲哀天皇です。応神天皇と、比売大神(ひめおおかみ)としてまつられる神功皇后と、仲哀天皇。この三柱を、八幡三神(はちまんさんしん)と呼びます。
天皇の名が、町の社の通称になっています。不思議に見えて、八幡さんの広がりは、この親子を武の守りへ読み替えた歴史そのものです。一代の君主が、祈る相手へ移っていきました。
海から帰った子と、三柱の女神
応神天皇の物語は、生まれる前から母の旅と離れません。神功皇后は海を渡り、帰ったあと、その子は誉田別命(ほんだわけのみこと)として祀られるようになります。八幡信仰は、この誉田別命と、宗像の海の女神たちを一つに結んで育ちました。
宗像三女神(むなかたさんじょしん)は、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、湍津姫命(たぎつひめのみこと)、田心姫命(たごりひめのみこと)です。古事記は、天照大神(あまてらすおおかみ)が誓約のなかで剣からこの三柱を生んだ、と記します。後の八幡信仰は、この海の三女神と、応神天皇の親子とを結びつけて語ってきました。母の神功皇后が海を往還した記憶が、陸の弓矢だけでは閉じない親子の物語を、波の神へ開いています。
海を往く者にとって、三女神は波の向こうの守りでした。母が海を越え、子が誉田別命として地に残ります。八幡の社が、武と、誕生と、土地の守りを一つの神に見たのは、この親子があるからです。比売大神という呼び方は、母を女神の列に置くための名でもありました。父の仲哀天皇が三柱の一角に坐ることで、八幡さんは親子三柱の家として祀られています。
源氏が、自分の都まで神を運んだ
平安時代以降、八幡さんは武士の守護神として崇敬されます。源義朝(みなもとのよしとも)も、源頼朝(みなもとのよりとも)も、篤い信者でした。頼朝が求めたのは、都の近くにある格式に限りません。自分の本拠に同じ神を迎え、武家の守りを、皇子の神へ預けることでした。鎌倉時代、神奈川県鎌倉市の鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)は、源頼朝によって勧請されます。武家の守護神としての八幡神社は、ここから城下へ広がっていきました。
広がりの核として仰がれてきたのが、石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)です。八幡信仰の総本社とされてきました。ここに祀られた応神天皇は、史書の天皇であると同時に、弓矢の神になっていきます。戦の前に願をかけ、勝ち戦のあとで礼を言います。武士が見ていたのは、母の遠征を背に受けた子の武威です。源義朝の代から源頼朝の代へ、信仰は家の物語としても受け継がれました。父が頭を下げた神を、子が自分の都へ迎える。勧請とは、祈りの場所を増やすことであると同時に、血筋の側が神を選ぶことでした。祈りの相手へ移っていく過程が、八幡さんの数そのものでした。
三柱の前で、いま手を合わせる
近所の八幡神社でも、祭神の並びは縮図です。中央に応神天皇、その傍らに比売大神と仲哀天皇が坐ります。社名は土地ごとに違っても、呼ぶ声は八幡さんで揃います。石清水の石段を上りきると、谷の風が途切れ、都から少し離して神を置いた理由が、距離として分かります。鎌倉の鶴岡では、参道の先に、源氏が政を見た方角が開けています。同じ三柱が、山の上と武家の都とで、別の風景を背負っています。
扁額に八幡の字があれば、マンションに挟まれた社叢でも、石清水と鶴岡と同じ家族がそこにいます。母が海の女神たちに守られて帰り、子が誉田別命となり、父が傍らに名を残す。全国約2万の社は、この構図を小さく繰り返してきました。
次に人が、赤い鳥居の数で思い出すのは、全国のお稲荷さんです。


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