静岡県富士宮市に着くと、北の空を富士山(ふじさん)が占めています。麓の社、富士山本宮浅間大社(ふじさんほんぐうせんげんたいしゃ)から山を仰ぐと、信仰の相手が山そのものだと分かります。全国に約1,300社ある浅間神社(あさまじんじゃ)の総本社が、ここにあります。
浅間とは、火を噴く山のことだ
浅間(あさま)とは、火を噴く山、すなわち火山を意味する言葉です。富士山は、この国を代表する霊峰であり、同時に活火山として、畏れと信仰の対象になってきました。古代の人にとって、噴火は神の怒りや力の現れです。火山を鎮め、安寧を祈って社が建てられたことが、浅間信仰の始まりだとされます。山そのものが神体、神体山であり、社は、その山を拝むための施設として働いてきました。山岳信仰の、典型の一つです。富士山本宮浅間大社は北麓に位置し、山を拝む正面口(こうげん)としての役を担ってきました。境内から仰ぐ稜線が、浅間の神聖さを今も見せています。
炎の産屋で、疑いを退けた
主祭神は、木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)です。大山祇神(おおやまつみのかみ)の娘であり、古事記と日本書紀に登場する女神です。天照大御神の孫、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の妃となりました。火山の神としての側面を持つこの姫が、富士の噴火を鎮め、安寧をもたらす神として浅間神社に祀られています。
古事記では、瓊瓊杵尊が木花咲耶姫に求婚したとき、姉の石長比売(いわながひめ)もともに請われます。瓊瓊杵尊は木花咲耶姫の美しさに惹かれ、石長比売を退けました。石長比売は、わが子孫は石のように長く続く、と呪い、木花咲耶姫は、わが子孫は木の花のように栄える、と応じた、と伝えられます。
のちに姫は身ごもります。瓊瓊杵尊は、自分の子であるかと疑いました。姫は、門を持たない産屋だと伝える火無煖屋(ほのかぐや)に入り、神の子であれば災いがあってはならない、と宣言して、火のなかで子を産みます。産屋は炎に包まれ、それでも母と子は無事だった、と語られてきました。浅間の信仰は、このとき生まれた子を火の神である火之炫毘古神(ほのかぐつちのかみ)と結び、姫のうちに、火を鎮め、火の力を制する働きを見てきました。活火山である富士にこの姫を祀るのは、噴火を鎮める祈りと、炎の産屋の物語が、同じ場所で重なっているからです。
806年に、いまの場所へ社が建った
大同元年、806年、平城天皇(へいぜいてんのう)の御代に、現在地へ社殿が建立されました。以来、富士宮のこの社が、浅間神社の総本社として山の北にあります。
江戸時代になると、富士山への参詣が盛んになり、富士講(ふじこう)と呼ばれる信仰の集まりが全国へ広がりました。そのころ富士山には7つの登山道があり、それぞれの登山口に浅間神社が建てられています。現在残る登山道は4つです。各登山口の社は、登る人の安全と、富士の神への祈りの場として働いてきました。浅間神社は、山に入る前に必ず参る場所として、江戸の人の信仰の中心になります。富士講の人は、自分の国から続く道の入口で、まず姫に頭を下げてから山へ入りました。道の数が減っても、山に入る前に社がある、という順序は残っています。分霊の社は、その入口の祈りを、富士が見えない土地にまで運んでいます。
分霊は、関東と中部へ下りた
浅間神社は、富士山の分霊(ぶんれい)を祀る社として、全国へ広がっています。関東や中部を中心に、富士信仰の及んだ土地で、地域の守護として祀られてきました。御神徳は、火災除け、家内安全、安産、商売繁盛に及びます。火山の神を祀る社として、中心にあるのは、火を鎮め、安寧を願う祈りです。
2013年、富士山はユネスコ世界文化遺産に登録され、浅間神社と富士の信仰は、この国の文化的な景観として認められました。北麓から山を仰ぎ、社に頭を下げる姿は、炎のなかで子を証明した姫の物語と、今も重なります。
山を拝む列の次に見えてくるのは、お祭りという言葉そのものです。大祭、中祭、小祭と呼び分けるとき、人は何を分けているのか、という話へ続きます。


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