20年で、社殿は隣の敷地へ移る
正殿の横に、同じ形の空地が残されているのを見たことがあります。古い社が立っているあいだ、隣は次の社のために空けてあります。神宮では、20年に一度、式年遷宮(しきねんせんぐう)が行われます。式年遷宮とは、20年ごとに御社殿を造り替え、神様をお遷しする祭典です。
内宮、外宮をはじめ、別宮や摂社、末社の多くには、東西に同じ形の社殿の敷地があります。20年ごとに、交互の側へ新しく造り替えます。同じ形を、新しい木で、隣に建て直す。隣の敷地は、次の20年のために残された場所です。東西の形が揃っているので、神は同じ姿の新しい殿へ遷ることができます。
制度が始まったのは飛鳥時代、第40代の天武天皇のころです。第41代、持統天皇の4年(690年)に、第1回が行われました。以来、およそ1300年。戦国時代には一時、中断もありました。それでも20年に一度が繰り返され、平成25年には、第62回の式年遷宮が行われています。
遷御の正午まで、山の口から始まる
平成25年10月、遷御(せんぎょ)が行われました。神様が、新しい殿へお遷りになる祭儀です。その準備は、何年も前から動いています。平成16年1月19日、大宮司に遷宮の下命がありました。4月25日には、御樋代(みひしろ)開きの儀があり、御樋代をめぐる式が営まれました。
平成17年5月には、山口祭(やまぐちさい)です。御用材の伐り出しに先立ち、山の口で山を守り、安全を山の口に祈ります。これを皮切りに、およそ三十の諸祭と行事が進みました。昭和4年の数々の祭典、行事のうち、主要な十二の祭典について日時を記した定めでは、遷御は正午に行われる、とされています。昼の真ん中に、神が新しい殿へ移る。内宮と外宮のあと、別宮、摂社、所管社の御遷宮も行われます。
伊勢の正殿の横に立つと、片側には今の社、片側には次の社のための地面が広がっています。別宮、摂社、末社の多くも、東西に同じ形の敷地を持っています。20年のあいだ人は古い社に参拝し、隣の地面が木の骨格に変わっていくのを見ます。遷御の日、神はその骨格のなかへ、正午に移ります。昭和4年の定めが主要な十二の祭典の時刻を書き、遷御を正午としたのは、移動の瞬間を昼の頂点に置くためです。内宮と外宮が移ったあと、別宮と摂社と所管社が、それぞれの新しい殿へ続きます。およそ三十の諸祭は、山の口の山口祭から、この正午までの道のりです。式年遷宮という名は、その列の全体を指しています。
木を削る音が、20年に一度、伊勢に戻ってきます。中堅と呼ばれる人は、前回は若手として見ていた作業を、今度は手元で示します。若手は、次の20年のために、その手元を見ています。延喜式(えんぎしき)の周期は、文書のうえの20年であると同時に、人の世代が入れ替わる長さとしても語られてきました。萱葺きの屋根が新しいうちに、技の方も新しい手へ移る。心御柱のまわりに諸説が残るのも、20年の理由を、一つの答えだけには絞れないからです。
なぜ、20年なのか
その20年は、平安時代に編纂された延喜式に、文章としても規定されています。諸説が並んでも、周期の数字だけは、式の文言として残ります。式が残ったから、理由の語り方が揺れても、20年という数字そのものは、いまも動きません。
建て替えることで、古くからの常若(とこわか)の御姿が、朽ちる前に戻されます。神威がいっそう高まることを願い、御社殿だけでなく、御装束と神宝も新たにします。正殿の敷地に敷き詰める白い石、御白石(おしらいし)。黒い石、清御石。それらも、新しくします。白い石が敷地を埋め直すとき、境界そのものが、一度、真っさらに戻る。
式年遷宮は、日本の心と技を、途切れさせずに次へ渡す祭典です。渡されるものの中身、どの山の木を使い、六百の装束と神宝をどう調えるのか。次は、御杣山と、御装束神宝です。


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