御杣山は、伊勢の山から木曽へ移った
遷宮の御用材を伐り出す山を、御杣山(みそまやま)といいます。持統天皇の御代から鎌倉時代の中期まで、御杣山は神路山(かみじやま)と高倉山(たかくらやま)でした。伊勢の宮のすぐ背後にある山が、次の社殿の木を出していた時代です。江戸時代の中期以降、御杣山は木曽地方へと移り、いまに至っています。山が遠くなるほど、一本の檜が伊勢へ着くまでの道が長くなります。神路山と高倉山が御杣山であったあいだは、宮の背後の山で、木が伊勢のなかを循環していました。持統の御代から鎌倉の中期までが、その近い山の時代です。江戸時代中期に木曽へ移ってからも、伐る山の名は御杣山のままです。遠い山になっても、神宮のための山であることは変わりません。
神宮では、再び宮域の林で木を育てようと、大正時代の末ごろから宮域林に植栽を進めてきました。200年後の御用材を確保するため、檜を育成しています。いま植える人は、自分の遷宮には間に合わない木を植えている。第62回の式年遷宮で確保された御用材は、およそ一万本。なかには、樹齢400年を超える巨木もあります。20年ごとに新しい社を建てるために、400年生きた木が伐られる。若さと古さが、同じ工事現場で出会います。大正の末から宮域林へ檜を植えるのは、山を再び神宮の手もとに戻す試みです。200年後の用材は、植えた人の目には届きません。孫の世代が、その木の遷宮を見ます。第62回のおよそ一万本のなかの、樹齢400年を超える巨木は、何回もの20年を、山の側で待っていた木です。
20年を終えた木は、鳥居になる
20年のお役目を終えた御用材は、撤下古材(てっかこざい)と呼ばれ、捨てられずに活かされます。内宮と外宮、御正殿の棟持柱(むなもちばしら)は削り直され、宇治橋に立つ鳥居になります。正殿を支えていた柱が、参道の入口の門に姿を変える。次の遷宮では、関の追分や、桑名の七里の渡し口の鳥居に用いられます。伊勢へ向かう人が、道の途中でくぐる門が、前回の正殿の木であることがあります。関の追分と桑名七里の渡し口は、次の遷宮で、いま宇治橋に立つ木を受け取る場所です。宇治橋の鳥居になった棟持柱は、次の遷宮では関の追分や桑名七里の渡し口へ役割を移します。参宮の入口が、20年、正殿の棟を支えていた木でできている。被災した神社や、縁の深い神社へ下げられる木も、同じ撤下の列に並びます。
それ以外にも、災いに遭った神社や、縁の深い神社へ下げられ、用いられてきました。各宮の御正殿に納められるものは、20年のあいだ守られたあと、次回の遷宮で撤下されます。新しい木が隣の敷地に立つとき、古い木は次の役割の名前を受け取ります。
六百の装束と神宝が、西宝殿を出る
御装束神宝は、およそ六百点です。平安時代の儀式帳(ぎしきちょう)に規定されたところにのっとり、古式のままに調製されてきました。時代が変わっても、形の基準は儀式帳に戻る。神宝とは、紡織具、武具、日用品などを含みます。神の衣服と装飾品。神座や殿舎に敷くもの、衾(ふすま)、褥(しとね)、幔(まん)など。遷御に用いる品々まで、神宝の名に含まれます。
武器も、織る道具も、日々の道具も、神宝に入る。神々の暮らしと、人の暮らしが、地続きであったことの名残です。正しく整えて神に捧げる、という気持ちが、一点ずつの調製に残っています。
明治以前は、役目を終えて燃え尽きた神宝の類は、埋められることがありました。現在は、すべて保存されます。その一部は、神宮徴古館(じんぐうちょうこかん)で拝観することができます。内宮と外宮の神宝に限っては、新しい宮の西宝殿(さいほうでん)へ移され、さらに20年後に撤下されます。木と同じく、宝物も20年を一つの任期として、次の殿へ渡っていく。
宇治橋の鳥居をくぐった人が、なぜこの社まで歩いてきたのか。その足取りは、お伊勢参りと、おかげ参りへと続いていきます。


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