正月の画面に、白い玉砂利の伊勢が映ることがあります。宇治橋を渡る列は、観光の混雑に見えて、実はずっと前から続いている列です。一生に一度はお伊勢さんに、と願う気持ちは、江戸時代の庶民が口にした願いと、あまり変わっていません。
その旅を、滑稽な道中に仕立てたのが『東海道中膝栗毛』です。江戸から伊勢へ向かう足取りは、笑い話であると同時に、誰もが知っている信仰の行程でした。平安時代の終わりごろから、一般の人の伊勢参宮は増えていきます。道を開いたのは、御師(おし)と呼ばれる人たちです。御師は祈禱を行いながら、神宮のお札を各地へ配って歩きました。伊勢は遠い。遠い宮の神を、札という小さな形で家のそばまで運んだのが、彼らの仕事です。祈りの言葉を唱え、札を置き、また次の土地へ歩く。御師の旅は、参宮する人より先に、伊勢を全国の村へ運んでいました。
幣帛を捧げ得たのは、天皇ひとりだった
もともとの御師は、皇室のための祈禱を専らにする神官でした。伊勢神宮には、私幣禁断(しへいきんだん)というきまりがありました。神宮に幣帛(へはく)を捧げることができたのは、天皇おひとりです。ほかの皇族でさえ、許可がなければ幣を供えることはできません。神に届く公式の贈り物は、一人の手に集められていたのです。
それでも信仰は、宮中の内側に止まりませんでした。鎌倉時代には、遠い国にも神宮の荘園や神領ができていきます。土地の収穫が神宮へ届く仕組みが、各地に根を下ろした。祈りの独占と、領地の広がり。この二つが並んだとき、伊勢は皇室の宮であると同時に、全国の暮らしに紐づく宮になっていきます。
室町時代になると、御師の活動はさらに目立つようになります。各地で組織された講(こう)を拠点に、人々は集団で伊勢を目指しました。一人の願いが、組の願いになる。御師は祈りの仲介者であると同時に、旅の段取りを知る案内人でもありました。
積み立てた金と、空から降った札
江戸時代、街道が整うと、お伊勢参りはいっそう盛んになります。庶民が旅の資金を少しずつ積み立てたのが、伊勢講です。旅に出るのは、選ばれた代表です。講の仲間の気持ちを預かって、伊勢を詣でました。残った人は、代表の足に自分の分の一歩を乗せたのです。
江戸時代のお伊勢参りといえば、おかげ参りです。きっかけは、天から神札が降ってきた、という知らせでした。わずか数か月のうちに、約四百万人もの人が伊勢へ押し寄せた、と伝えられます。道は人で埋まり、宿はあふれ、見ず知らずの者同士が「おかげ」の言葉で席を分け合った。個人の願掛けが、膨大な人数の歩行になった瞬間です。
おかげ参りは、ほぼ60年の周期で、何度も繰り返されました。著名人も、その波に乗って伊勢を詣でました。宿場の軒先では、見も知らぬ旅人に席を譲る声が飛んだ、と語られます。おかげ、という一言が、道の混雑のなかで人を通した。約四百万人という数は、記録の桁であると同時に、街道が人の体で埋まった感触です。さかのぼれば、平安時代の末期に西行法師が参詣し、歌を残しています。幕府の役人も、神宮へ何度も足を運んでいます。天皇だけが幣を捧げ得た時代から、庶民が一生に一度を願う時代へ。伊勢信仰の広がりは、天照大御神(あまてらすおおみかみ)を国民の総氏神として仰ぐ心が、宮中の外へ出ていった過程でもありました。おかげ参りに見た集団の熱は、共同体で神をまつる感覚そのものです。
近所の神明様は、伊勢から招かれた神である
いま、旅に出なくても伊勢に触れられる場所があります。全国の神明神社、神宮、天祖神社。これらの多くは、お伊勢さんの神を勧請(かんじょう)した神社です。遠い内宮の天照大御神を、自分たちの土地へ招いた分社です。扁額に「神明」とあるなら、その社は伊勢参宮の延長として立っています。
講の代表が預かった気持ちも、天から降ったという札も、一人の信仰を隣の人と分け合うための工夫でした。家に届くその一枚が、氏神と家庭をつなぐ神宮大麻(じんぐうたいま)です。


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