お米づくりは、いつ、どの道を通って日本列島へやって来たのでしょうか。この問いの答えは、ここ20年ほどで大きく塗り替えられています。
弥生時代の始まりが、ぐっと古くなった
弥生時代は、ふつう水田稲作が本格的に始まった時点から数えます。では、それはいつなのか。手がかりは、水田の跡と一緒に見つかる土器です。土器の年代が分かれば、田んぼが使われていた時期も見えてきます。
長い間、その始まりは紀元前5世紀ごろの北部九州と考えられてきました。ところが平成15年(2003)、国立歴史民俗博物館が、土器にこびりついた焦げ(炭化物)を放射性炭素年代測定で調べ直したところ、約500年さかのぼる紀元前10世紀後半という結果を出しました。
この発表には賛否がありました。それでも現在は、少なくとも紀元前8世紀ごろまではさかのぼる、と見る研究者が多くなっています。測定値の補正方法にはまだ議論が残っており、「弥生時代の始まり」の年代は、これからも動く可能性があります。
三つのルート説
稲作がどこから来たかについては、大きく三つの説が出されてきました。
| 説 | 道すじ | かつての評価 |
|---|---|---|
| 朝鮮半島経由説 | 大陸→朝鮮半島→北部九州 | 長く有力 |
| 南方経由説 | 大陸→沖縄など南の島々→九州 | 少数派 |
| 大陸直接説 | 大陸(長江流域など)→海を渡って九州 | 少数派だったが、近年注目 |
見直しのきっかけは、日本と朝鮮半島の稲作の始まりが、どちらも古くさかのぼったことです。両地域の最も古い水田跡からは、同じタイプの土器が出ています。朝鮮半島南部で最古級とされるオクキョン(玉峴)遺跡の土器は、紀元前11世紀ごろのものと考えられています。一方、半島より北の遼東半島や朝鮮北部では、古い水田跡は見つかっていません。
そこで、黄河流域の勢力が南へ広がった影響で、長江流域の人々の一部が散り散りになり、海を越えて稲作を持ち込んだのではないか、という考え方が出てきました。
イネの遺伝子が語ること
決め手のひとつが、イネそのものの DNA です。平成20年(2008)、農業生物資源研究所は、東南アジア方面から大陸を経て日本へ直接伝わった温帯ジャポニカの系統がある、と発表しました。
使われたのは SSR多型 という方法です。DNA の断片の長さの違いで、品種のグループを見分けます。集団の一部が別の土地へ移ると、元の集団より多様性が小さくなります。逆に、少ない種類しか持たない集団が、あとから種類を増やすことはありません。
| 地域 | 見つかった型(aからhの八種類) |
|---|---|
| 大陸(稲作の起源地) | 八種類すべて |
| 朝鮮半島 | b以外の七種類 |
| 日本列島 | aとbがほとんど(cが少し) |
もし稲が朝鮮半島だけを通って来たのなら、半島にない b が日本にあるのは不自然です。少なくとも b の系統は、半島を経ずに大陸から直接来たと考えられます。また、日本の稲の型が少ないことは、持ち込まれた稲がわずかだったことを示します。
人が入れ替わったわけではない
大量の稲を抱えた大集団が押し寄せたのではなく、少人数の人々が技術を伝えた、という見方につながります。縄文人と弥生人の遺伝子の分析でも、人々がまるごと入れ替わった形跡は見つかっていません。お米づくりは、もとから列島に住んでいた人々が受け入れ、広げていったものだったのです。

