弥生時代の環濠集落の中で、もっとも大きく、もっとも有名なのが佐賀県の吉野ヶ里遺跡です。どんな場所だったのでしょうか。
守りを固めた三重の堀
吉野ヶ里遺跡は、日本最大級の環濠集落跡です。最大の特徴は、集落をぐるりと三重に囲む堀。いちばん外側の堀は全長約2.5キロメートルにもなります。
| 外堀のデータ | 数値(目安) |
|---|---|
| 全長 | 約2.5km |
| 幅(広いところ) | 約7m |
| 深さ | 約4m |
| 断面 | V字形 |
V字の急な斜面は、一度落ちたら簡単には上がれません。堀の内側には高い木の柵がめぐっていたとみられ、内側の堀の近くには、見張りのための物見やぐら(楼観)が立っていたと考えられています。
400年以上かけて大きくなった
集落ができ始めたのは紀元前4世紀ごろ。そこから少しずつ規模を広げ、最盛期の3世紀ごろには、集落に約千二百人、周辺も含めた共同体全体では五千人以上が暮らしていたとされます。
海とつながる立地
いまの吉野ヶ里は有明海から20キロほど内陸ですが、弥生時代には南のすぐ近くまで湾が入り込み、海までは約2キロ、水路でつながっていました。有明海は波の穏やかな広い内海です。田で米を作りつつ、海の幸を得て、船で他の地域と行き来する。そんな暮らしに向いた場所でした。
北内郭と南内郭
集落の中心部は、堀でさらに区切られていました。
| 区域 | 主な建物 | 考えられている役割 |
|---|---|---|
| 北内郭(きたないかく) | 大きな主祭殿・楼観・高床の建物 | 祭りを行う、国の中心 |
| 南内郭(みなみないかく) | 多くの竪穴住居・楼観 | 王やその一族の住まい |
田んぼは堀の内側にはなく、外側に大きな集落が広がっていました。周りのいくつものムラを束ねる中心だったと考えられ、のちの「国」の原型を見ることができます。
戦いの記憶と、その後
傷のある人骨や金属の武器が出土していることから、弥生時代の北部九州では争いが絶えなかったことがうかがえます。墳丘墓からは銅剣やガラスの管玉(くだたま)などが見つかり、身分の高い指導者がいたことも分かります。
吉野ヶ里は、古墳が造られる時代に入ると急速に衰えました。そのころ周辺には前方後円墳が築かれ、人が暮らす場所から、死者を葬る場所へと移り変わっていきます。現在は国の特別史跡で、国営吉野ヶ里歴史公園として建物が復元されており、実際に歩いて堀の深さを体感できます。

